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【転勤族の妻】資格が活かせない…スペインでゼロから在宅ワークに挑戦!

\海外転勤で人生リセット!?/

こんにちは!スペインで駐在生活を送る、転勤族の妻、マミです。
私のブログにお越しいただきありがとうございます!

旦那さんの転勤で、働き方が制限される方は多いと思うのですが、
私はその末期で、海外ではビザの関係でお仕事が一切できません。

この記事では、私がどんな経緯で「ゼロから在宅ワーク」に挑戦しようと思ったのか
そして、どうやって「働けない状況」を乗り越えようとしているのかを、
私の自己紹介を含めてお話ししていきたいと思います。

私と同じように、
「資格が活かせない…」
「夫の転勤でキャリアが止まった…」
そんな悩みを抱えている方に、少しでもヒントや希望を届けられたら嬉しいです(^ ^)

基本情報

名前:まみ
生年月日:平成元年生まれのアラフォー
経歴:2024年4月まで管理栄養士のお仕事をしていました。
趣味:韓国ドラマ、占い・スピリチュアル、カフェ巡り、自然に触れる。

【人と比べてしまう子ども時代】周囲と違う家庭に感じた違和感

私は、沖縄県の離島、久米島というド田舎で、
公務員の両親と兄、祖父母の元に生まれ育ちました。

両親は、戦後の混乱期に育っており、兄弟姉妹が多く、父は長男、母は次女として、貧しい環境の中で育ったそうです。
その影響もあって、私たち子どもには、同じような苦労をしてほしくないという気持ちが強く、教育に厳しかったように思います。

また、両親は結婚が遅かったため、同級生の親よりもひと世代上の年齢でした。
それが子どもの頃の私には少しコンプレックスで、どこか人と比べてしまう気持ちがあったのを覚えています。

・友人がゲーム → 我が家の遊びは食料採取
(海でタコやエビを捕まえたり、ニワトリを飼って卵を産んでもらって食べる)
・お小遣いがない → アイス買えない
・テレビ制限 → 友達の話題についていけない

倹約家の両親のおかげもあって、お金の不自由をさせたくないと、学びや体験には惜しみなく、むしろ贅沢にさせてもらっていました。

・長期休みにはよく国内旅行へ。
・創作太鼓、ピアノに習字と習い事もたくさん。
・部活動での沖縄本島への遠征も、経済的な理由で参加できない友人がいる中、毎回参加。
・島の高校ではなく、寮費もプラスでかかる沖縄本島の高校へ。

(小学生時代)
・男の子に混ざって野球をする活発な女の子。
・創作太鼓で自分を表現できる楽しさを知る。
・近所のおじー・おばーに孫のように可愛がってもらう。
・家では、嫁姑問題もあり、いつもみんなの地雷を踏まないようにと必死。
・祖母の死。母に気を使い甘えたり、恩返しができなかったことが心の傷になる。

元々明るくて活発な女の子ですが、いつもピリピリした家庭で、繊細な部分も持ち始め、根明な性格から、笑って自分の気持ちを誤魔化したり、本音を隠すようになりました。

(中学生時代)
・学力が低ことを心配した親に、田舎では珍しい塾に通わされる。
・恋愛禁止、お笑いやドラマ禁止、スカートは長く、親が厳しく真面目が加速。
・厳しい家庭教育への疎外感を埋めるために、未経験からバスケ部に入り没頭。
・中3では、バスケ部キャプテン、陸上では、校内の女子キャプテンも経験。
・運動も勉強も、生徒数が少ないため、田舎では常に上位。

中3の陸上大会で、速い選手が皆転んでしまい、100m Hで地区大会3位、県大会4位に入賞したりして、モテ期もあり、プチ成功体験を味わった3年間でした。
この頃から、私は運が良いと思うようになりました。

(高校生時代)
・中学での内心がよかったため、県内の進学校へ推薦入学。
・学科は島から唯一受験できた「国際文化学科」。
・勉強はついていけず、英語も全くわからず、毎日睡眠学習。
・体育祭や文化祭、修学旅行で行った初めての海外など勉強以外でたくさんの楽しい経験。

勉強には全くついていけず、島とのギャップに思わず笑ってしまいましたが、県内の離島から集まった素敵な友人とも出会え、人として学ぶことがたくさんあった3年間でした。

(大学生時代)
大学受験は、母の勧めもあって管理栄養士を目指すことに!
しかし、受験に失敗。

・浪人しても短大にしか合格できず、泣く泣く短大(東京)へ。
・短期でオーストラリアの栄養士姉妹校へ短期留学。
・大好きなオジーオバーが恋しくてヘルパーの資格も取り介護のバイト。
・国家試験の受験資格を取るために短大と同じ系列の大学へ編入学(埼玉)。
・編入試験は、試験当日、電車で確認したものだけが出題され合格。(運良すぎ!)
・周りがバイトやサークルと学生生活を満喫している中、1人で猛勉強の日々。
・無事国家資格に合格できたのは、1つ自信に。

私が行かせてもらった大学は、管理栄養士養成校の中で、学費が高くて有名な大学でした。

そんな中でも、奨学金を借りることなく、仕送りもしてもらいながら、大学に通いました。

この時すでに父は退職していましたが、それも見越してお金を準備していたことにただただ感謝と尊敬の気持ちでいっぱいです。

経済的に自立した両親の元で育ったことで、私も親になったら両親のように、子供達には、時代にあったお金の教育に力を入れながら、お金の不自由を感じることなく育てたいと思うようになりました。

そんな思いとは裏腹に、
社会人になると、お金の失敗をたくさん経験することに、、、、

【誰にも言えない】借金・詐欺・給料差し押さえ…人生が一変

就職活動は、国家試験の勉強を優先していたために1度しかせず、関東では比較的入社しやすい給食会社の面接を受け合格。

社会人1年目は、色々ありながらも、それなりに頑張っていました。

管理栄養士の仕事をしながらMLMにのめり込む

管理栄養士の仕事をしていると、サプリメントなどの健康商材を扱ったMLMのお話もよくきました。

田舎では聞いたことのない「権利収入」「副業」「複数の収入の柱」という言葉や働き方に興味深々の私。

両親のように、経済的に自立できるかも!とワクワクしてスタート。

実際には、副業収入を得るわけでもなく、むしろ赤字状態でしたが、学生のサークルの延長のような雰囲気で、仲間がいる楽しさ、権利収入、副業という働き方を知っている優越感に浸っていました。

MLM仲間で、管理栄養士の先輩の影響もあり、入社した給食会社も1年で退職し、派遣で管理栄養士の仕事を続けながら、MLMの勧誘のため、仕事の時間以外は都内の喫茶店で人の話を聞きながら時間だけが過ぎて行く、なんだかパッとしないフラフラした生活を送っていました。

両親を目標にかかげながら始まった社会人生活でしたが、貯金どころか収入はMLMの商品購入に使うというありさま。

そんな中、追い打ちをかけるように、
20代前半にしてすでに人生がガタガタと崩れ始めていきます、、、、

初めての彼氏に言われるがまま消費者金融で借金

私は、短大生の時、バイト先の沖縄料理屋さんで出会った15歳年上の料理人の彼氏がいました。

3年ほど付き合っていたのですが、私が、社会人になった頃、「独立して自分のお店を出したいからお金を貸してほしい」と言われ、

迷いながらも言われるがままに消費者金融を2件ハシゴして借りれるだけのお金を借りて貸してしまったのです。

もちろん返すのはカレだと思っていたので、
この後に起きる悲劇を考えていませんでした、、、、、

私の知らないところで返しては借りてを繰り返しており、消費者金融での借金が膨らんでいることも知らず、現実に気づいた時は、すでに時おそし、お店は潰れ、調停をしても返してもらえず、、、、

法には守ってもらえないということがとても衝撃でした。
(差し押さえや弁護士を雇うと費用がかさみ諦めるしかありませんでした。)

詐欺被害、給料差し押さえ、返済地獄…

急に始まった借金生活。

・返済のために、母が生まれた時から貯めてくれていた大金を投資し、詐欺で溶かす。
・督促状や督促の電話に精神的に参る。
・借金返済を優先したくて、市民税をの支払いを後回しにしていたら給料差し押さえ。
・睡眠を削り、いくつもバイトを掛け持ち。管理栄養士の仕事で居眠りが続き、クビに。
・風俗店での面接に行くも勇気がなくて断念。
(ショーケースの中で1人でプレイしているところを見てもらってお金を稼ぐらしい)
・コールセンター、仕分け作業、商品PR、宴席での接客。たくさんの仕事を経験。

この頃、私は25歳。

両親は、この歳には妹・弟の学費を稼ぎ、家には仕送りをしていたと聞いていたので、借金に追われてパッとしない毎日を送っている情けない自分がとても嫌いになりました

誰にも相談できず、ただ毎日が怖かった

そして一番辛かったのは、恥ずかしくて誰にも相談できないこと。

両親には、心配をかけないようにと必死にウソを伝え誤魔化し、応援してくれることにさらに胸を痛めていました。

そんな中、友人からの久しぶりの電話。

初めて弱音を吐くと、電話越しに「まーみー生き方間違っていない?」の一言。

それがきっかけで、沖縄に帰ることを決意。

ご縁あって仕事先もなんとか決まり、逃げるようにして、沖縄に帰りました。

どん底の私を救ったのは、韓ドラと夫でした

沖縄に帰ってきたのはいいものの、職場の上司や同僚が怖くて仕事に集中できずミスを起こしてしまったり、生きた心地がしない毎日で、東京での出来事が心に大きなダメージを負っていることにこの時はじめて気がつきました

最低賃金が安く、全国的にも貧困が多い沖縄ですが、東京にいた時よりも条件の良い全国の会社で契約社員として働けていたので、いくつも掛け持ちをしなくても借金返済にお金が回せるようになりました。
(兄に家賃を払ってもらって一緒に住めたことも本当に助けに・・( ;  ; )感謝)

そのような状況の中、心も体も疲れ切った私を癒したのは「韓国ドラマ」でした。

仕事の時間以外は、常に韓国ドラマを見て、バレンタインデー生まれで、ロマンチストの私の頭の中は、お花畑に。

人の目が気になって隠れるように行動していた私は、韓国ドラマに夢中になることで、人目が気にならなくなり、仕事にも少しずつ集中できるようになっていました。

借金の返済も終わり、思う存分韓国ドラマを見て、鋭気を養い元気になった私は、気づけば30歳も目の前、、、、

「自分の人生こんなはずではなかった」と、不憫な自分自身を変えたくて本を読んだり、YouTubeを見たりして、自己啓発や占い、スピリチュアルどハマりしたのもこのころ。

時間があれば、カフェに行って閉店まで本を読むようになりました。

そんな中、カフェで本を読んでいるときに、隣に座っていたのが夫でした。

夫は、アメリカの軍人なのですが、日本語を勉強しており、ひょんなことがきっかけで話し始めたのがはじまりです。

初めはお互い日本語と英語を教え合っていましたが、カフェ以外にも遊びに出かけるようになり自然の流れで、付き合うようになりました。

言葉も文化も違う、ナイジェリア出身の夫との時間は、自分の当たり前を破壊してくれ、
海や川、山と大好きな自然にも出かける機会が増えたことで、閉ざしていた心の扉が少しずつ開くようになっていきました。

元カレとのトラブルや借金のことを話すと、「がんばったね」と褒めてくれた時は、本当に救われました。
(この話をすると大体の男性はドン引きして、離れていきます。)

そんな中、夫の転勤の時期。

まだ付き合いが浅かったので、転勤先が国外になったら、別れようと考えていました。

しかし、運よく夫は沖縄県内にある別の基地への転勤が決まり、「これはご先祖様からのお導きだ」と思った楽観的な私は、結婚を意識し始めました。

まずは、仲の良い兄に、夫を紹介したのですが、、、、
家族・親戚中からの猛反対にあうことに。

とても気が滅入りましたが、その度に夫と話し合いを重ねたことで、逆に絆が深まり、
皆の反対を押し切って結婚。

将来、「韓国人と結婚したい」とは思っていましたが、まさか、黒人の夫と結婚をするとは、人生何があるか分からないなとつくづく思います。

管理栄養士からオンライン秘書へ。スペインで始まった新しい挑戦

夫は3年おきに転勤があります。

どこに移動になっても、稼げるようにしなくちゃと、管理栄養士の仕事をする傍ら、ビジネススクールに入り、栄養講座を開催したり、インスタ発信をしたりと

色々挑戦してみましたが、仕事としては成り立たず、もどかしい日々を送っていました。

その中で、食育活動をしているボランティア団体とご縁があり、ミネラル給食の普及活動として、食育イベンを主催するように。

活動の中で、
・顧客対応
・チラシ作成
・申込フォームの作成
・チームメンバーの調整
・議事録作成
・イベント運営
・経理業務
・SNS発信     etc……

これまでやったことのなかった仕事を経験。

ボランティアで、収入にはつながりませんが、自分の「やりがい」や「強み」を見つけることができ、「秘書」というお仕事に興味を持つようになりました。

しかし、大金を使ってとった管理栄養士の資格。

それ以外の仕事をすることは、親への恩を仇で返すようなものだと、気持ちに蓋をしていました。

そうこうしている内に、長女・次女を立て続けに出産し、気づけば転勤の時期。

どこかでまた沖縄県内、もしくは日本国内のどこかに転勤できるのでは?という期待と、何も準備ができていない焦りを感じている中、決まったのはまさかのスペイン。

夫に単身赴任してもらい、沖縄で働き続けることも考えましたが、気軽に行き来できる距離ではないことから、家族で行くことを決断し、仕事の基盤を整えることができないまま退職し、スペインへ出発。

まぁ、スペインで何かしらのアルバイトはできるだろうと思っていたのですが、現実はそう甘くはなく、Visaの関係でお仕事がいっさいできないということを知りました。

あんなに必死にとった管理栄養士の資格も海外では、なんの意味もないことにガッカリしました。

さらに、沖縄は、全国的に賃金が安いため、共働きが当たり前。

周りに「専業主婦」をしている人がいないため、自分が専業主婦になることへどこか不安に思っていました。

しかし、スペインに来ると、

私と同じように、アメリカ人の旦那さんの転勤でスペインに来ている専業主婦の日本人の方がたくさんいて安心し、人生で来る機会があるとは思ってもいなかったヨーロッパ生活を楽しみながら、楽観的な私はどこか浮かれていました。

楽しみも束の間、、、、

スペインでの生活にも慣れてきて半年が経ったころ、日本の通帳の残高が、、、、

これまでオンラインで、在宅ワークができるように、様々挑戦してきましたが、中々収入に繋げることができず、

「また稼げなかったらどうしよう・・・」

という不安に襲われ、絶望を感じましたが、前に進む選択肢しかなく、ずっと憧れていた「オンライン秘書」を目指して、スペインの地で再び在宅ワークへの挑戦が始まりました。

最後に

初めてお仕事をいただいた時は、ありがたくて、胸がいっぱいになりました。

これからは、お仕事を任せてくださるクライアントさんへ「恩返し」できるようスキルアップしながら、

在宅ワークで月収30万円、2年後には50万円を目指す

という目標をかかげました。

そして、

・夫の転勤に左右されない働き方を手に入れる。
・毎年孫の顔を見せに日本に帰る。
・美容・おしゃれ・趣味も夫に頼らず、惜しみなく楽しむ。

という理想の未来を実現して、私の尊敬する両親のように、子ども達へ惜しみなくたくさんの経験をさせてあげられる私になりたいと思います。

私と同じような悩みを抱える、転妻の皆さんの何かきっかけや参考になれるよう、私の挑戦をこのブログに綴っていきますので、定期的に私の成長を覗きに来てください。

最後まで読んでいただきありがとうございました!(^▽^)/